伝説の卓球人 荻村伊智朗編①

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「笑いを忘れた日」

世界卓球選手権で合計12個の金メダルを獲得し

ミスター卓球と呼ばれた「荻村伊智朗」を皆様はご存じでしょうか。

名前は聞いたことあるけどなぁ

荻村杯国際卓球選手権の人ですよね、、、

あなたはこのような感想を持ってらっしゃるのではないですか?

「荻村伊智朗」を見くびらないでくださいね。

もう一度言わせてください。

「荻村伊智朗」を見くびらないでくださいね。

  • 世界卓球選手権金メダル12個
  • 世界卓球殿堂入り
  • 第三代国際卓球連盟会長

上記の3項目だけでも皆様の想像を超えていると思います。

そんな荻村伊智朗氏の自伝「笑いを忘れた日」を読んで

面白いな、みんなに知ってほしいなと感じたところを

前編で3つで紹介いたします。

卓球がなかなか上達しなくてモチベーションが上がらないあなたも

これらか上手くなってやろうと情熱を燃やしているあなたも

ミスター卓球「荻村伊智朗」から学びませんか。

是非、最後までお付き合いください。


卓球部設立

荻村選手が卓球をはじめたのは高校一年生でした。

第二次世界大戦後の1948年6月のことでした。

当時は学校に卓球部はなく、もちろん卓球台もありませんから

板を寄せ集め、クギで打って作った台で練習しておりました。

体育館の屋根も焼け落ち、青空の下で上級生が打ち合っているのを見て

面白そうだと思い、卓球部を作ろうという運動に参加することになります。

しかし敗戦直後の日本の公立高校でお金もなく、

体育館も雨が降れば水浸し。

もちろん校長先生は「だめだ」と卓球部を作ってもらえなかったそうです。

ぎりゅう
ぎりゅう

こんな時代が日本であったなんて想像するのが難しいですね💦

しかし、諦めず卓球部設立の願いを書いて、

毎日校長室の壁に張り出します。

それを見た校長先生は毎日剝がします。

それが、1週間続いてようやく校長先生から卓球部設立の許可がでました。

しかし、それには3つの条件がありました。

  1. 部室はなし
  2. 卓球台は買ってやらない
  3. 予算はなし

それでも、卓球部を作る運動に参加していたメンバーは

「バンザーイ」と承諾しました。

ぎりゅう
ぎりゅう

バンザーイってなりますか??

そこから、みんなで夏休みの間にバイトをして

卓球台を買うことになるのですが、ここでこの時代のバイトを

ご紹介しておきます。

  • 米軍の砂利トラックにて砂利運び
  • 英軍のジープ(車)の泥落とし
  • ピーナッツなどのおつまみをバーへ販売

当時ならではのバイトですね。

このようなバイト全てに反社会勢力の人が絡んでおり

ピンハネされるのが特徴だったとのことです。

このようなバイトが実を結び

ようやく中古の卓球台を買い、練習ができるようになったのです。

ぎりゅう
ぎりゅう

あたりまえに卓球ができる環境に

感謝を持って練習に取り組みたいですね。

オールフォアの原点

卓球部ができても、お金はありませんから

ボールが割れても薬局で酢酸アミールという液体を買い、

それで割れ目を溶かしてくっつけて使っていたのです。

また、ボールがへこんでも、蒸気で膨らませて使います。

そんな中、部員たちで色々話し合いが行われ、

部員の一人が言いました。

部員①
部員①

カットはボールがいちばん割れるから、

カットはやめよう

別の部員も

部員➁
部員➁

バックハンドも球の往復が激しいから

ボールが一番ラケットにあたる。

ボールが割れるからやめよう

そうして、フットワークを使ってファアハンドだけで打ち合う

オールフォアが誕生したのです。

この卓球スタイルが1990年後半まで続くのです。

ぎりゅう
ぎりゅう

このような理由でオールフォアで戦うスタイルができたのには

非常にびっくりしました。

僕の時代もフォアハンド主体でしたが、

何も疑わずにそのスタイルになってました。

なぜその卓球スタイルなのか、

自問自答することが大事なのではないでしょうか。

不公平な審判❓❓

1936年世界選手権の団体戦で

パネス(ルーマニア)対エーリッヒ(ポーランド)の試合が行われました。

この試合で「促進ルール」の起点が生まれました。

お互いツッツキ対ツッツキで1時間くらいラリーが続いたときに、

エーリッヒ選手がふと審判が非常に不公平ということに気が付いたのです。

審判は公平に両者の打球をを首を振って見ないといけないのに

この審判はエーリッヒ選手だけをグッとにらんんで、何か言いたげな表情をしていたのです。

これは、不当なプレッシャーを与えられていると、エーリッヒ選手は抗議しようとした瞬間に

役員が入ってきて、審判を担ぎ出したのです。

そうなんです。

審判は1時間も首を振っていたので、なんと首がつってしまったのです。

それでもラリーは続いており、また1時間経過すると

また審判が首をつって担ぎ出されました。

この試合が始まりで卓球の試合は1時間以内という当時のルールができたのです。

1時間経ってリードしている側の勝ちとなります。

1時間経って同点の場合は5分1本勝負になり

それでも決着がつかない場合は「両者失格」になるという

荒めのルールができたのでした。


卓球の歴史

荻村伊智朗選手の自伝「笑いを忘れた日」を読み

卓球の歴史に触れた感触があります。

これは卓球を愛する皆様に伝えたいと思い

ブログに書いております。

次回も引き続き、荻村伊智朗選手編➁をお伝えいたしますので、

乞うご期待ください。

ご訪問ありがとうございました。

ぎりゅう

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